君は「運命人間」を観たか?これを観ずにして新しい年を迎えようなんて許さない!
まだの人は、
●大阪・シネヌーボ 2004 11/18 17:30 11/19 12:15
●名古屋・シネマテーク 2004 11/18~21 15:10 11/25~26 17:00
でやってるから観てねー!
さて、忘れた頃にやってくる『石住メモ 愛の1440日』第三弾、いくよーVTR 回転!
〇映画は二度死ぬ
解説:文字で書かれたシナリオが映画として新しく生まれ変わるためには死を経なければならない。演出家は現場で、編集室で、映画の死を目の当たりにして何度も絶望する。そしてなんとか映画を蘇らせようとして苦闘するのだ。生きて、立ち上がってくれ、映画。フランケンシュタイン博士の絶望と欲望は、そのまま映画監督のものだ。
浦井:そうして蘇ったモンスターは、街の人々を大いに驚かすか、一瞬だけ愛されるか、完全に無視される。しかし、本物のモンスターは何度でも蘇るが、はりぼてのモンスターはそこで完全に死ぬ。三度死ぬ。
西山:ハリボテでもいい。元気に育って欲しい。
〇好きな役者はたいてい2.3枚目
解説:二枚目半という古典的な数値設定があるが、僕としてはそれより0.2少な目の2.3でお願いします。という具合に、役どころを細かく数値化して示す演出システムを考案中。
浦井:僕の父親は断然2枚目がお好きなようだ。この間実家に帰ったら部屋にオードリーとグレース・ケリーと僕の写真が張ってあった。
西山:君のソドムを数値化すると、3.3というところか?その倍の6.6か。僕としては3.2で行って欲しかったな。
〇ビデオ版「仁義なき戦い」には、ちょっと仁義があった。
解説:映画のスクリーンサイズは単に画面の広さの問題ではない。スタンダードとビスタとシネスコではジャンルが違うのだ。どのジャンルの映画にはどのサイズが合っているとか、そういう問題ではない。サイズ自体がジャンルなのだ。ビスタサイズのビデオ版『仁義なき戦い』と元のシネスコ版『仁義なき戦い』が「映画として」は別の内容の作品に見えるのは、そのためだ。
浦井:吉本の総本山であるなんばグランド花月(通称NGK)の舞台は異常なほど横に長い。シネスコなんて目じゃない、ほとんどシネラマの世界である。だから同じネタでも他の小屋や、テレビとは全然違ったネタに見える。
西山:それはシネラマではない。僕が見たシネラマは巨大スクリーンが半円形に客席を取り巻いていた。しかも、そのスクリーンは、パンツのゴムのぶっといヤツを縦に何十本も張り巡らしてあるという代物で、近くで見るとひらひらしていた。映画美学校の近所にかつてあったテアトル東京の話だ。
〇すべてが1.5倍大きい家
解説:あるとき、泥酔して、ふと気が付くと、身の回りのありとあらゆる物が通常の1.5倍の大きさを持つ部屋にいた。ここにはどんな人間が住んでいるのか、あの1.5倍のドアからどんな人間が入ってくるのか、と考えたら怖くなった。
浦井:ほとんど「不思議の国のアリス」やね。話は変わるが、その時奥さんのオッパイも1.5倍に見えたのであろうか?
西山:怖くなって寝たふりをしているうちに本当に眠ってしまった。次に気が付くと、朝のバス停のベンチだった。恥ずかしくなって寝たふりをしているうちにまた眠ってしまった。
〇僕の脳が誤解しているだけ
解説:まったく、俺の脳ときたら...
浦井:西山さんの脳は酒に浸かり過ぎて、イカの塩辛みたいになってます。だから変な映画になるんやなー。ようし僕も酒呑も!
西山:僕と僕の脳は別個の存在である。一方、僕と僕の内臓は同一の存在だ。酒を大量に摂取すると、そのことがよく分かるのだ。
〇長回しの映画ではない。カットの量が少ないのだ。
解説:「長回し」という発想と、「カットの量を少なくしよう」という発想は、似ているけど、ぜんぜん違うと思う。
浦井:ようでけた長回しのカットを観ると「よっしゃー!」と思うのはなぜだろう?
西山:それはおそらく「長回し」として撮られたカットではないのだ。「カットの量を少なくしよう」という発想で撮られたカットだ。「よっしゃー!」というのは、「こんなに簡単でいいんだ!」という驚きに違いないからだ。
〇ディレクターよりダイレクター
解説:同じ英語の違う読み方だけど、「ダイレクター」と言ったほうが演出家のやるべきことがハッキリしていいと思う。それは、「ディレクションすること」ではなく、「ダイレクトに本質に迫ること」だ。
浦井:僕の好きな芸人達ほとんどが、この「ダイレクター」だ。しかも生の舞台で、カメラの前で1秒掛かるか掛からないかでやってみせる。僕には出来ない・・・。酒呑も。
西山:演技に関しては、黒澤明が三船の演技について、それまでの役者がある内容を十数秒かけて表現していたとすれば、三船は同じ内容をほんの数秒で表現できる役者だというようなことを言っていた。これは、逆に、演技の速度を数値化して指示する演出法を示唆している。おそらく、万田さんがそれに近いことをやっていると思われます。
〇夫婦は伝染する。
解説:万田さんの『夫婦刑事』シリーズのテーマは、そういうことではないか、と。夫婦を描いて、ちゃんと伝染している状態まで描き出すのは大変困難なのだ。『UNLOVED』は、その一歩手前の段階を描いた映画ではないかと。伝染しない者同士は結ばれないし。
浦井:この前彼女が、映画「ゼイリブ」のことを「ゼイブリ」と言っていた。その後僕が、ジョン・カンペータと言った。アホは伝染する。
西山:なにがどう伝染するかは人それぞれだ。だが、それはそれで決定的な何かが伝染している感じだ。
〇映画のカメラ自体が霊魂みたいなもんだ。
解説:どこにでも出る、どこにでも立つ、どこにでも入っていける。作者の視点とか、人物の視点とか、そんな合理的なものだけじゃないという気がする。映画のカメラの存在というのは。
浦井:この間、昭和初期の16mmカメラを見た。「この人、色々見んでもええもん見てきてんやろうなー。」と思った。そうゆうことか?
西山:そんな感傷的な話ではない。カメラワークとかカメラポジションの無根拠さというか不合理さというか、とにかく、「カメラ=万年筆」なんかじゃない。「カメラ=霊魂」だ。それも、どこの誰とも知れない存在の霊魂だ。
〇「天の邪鬼」という言葉を度忘れして、一生懸命思い出そうとした。やっと思い出したとたん、テレビのCMにキャイーンの天野が映った。
解説:そのまんまです。こういうことって、たまにあるよね。
浦井:昔、スナックで「悲しい色やね」を歌った。サビで「フォーミタイ 大阪ベイブルース」と熱唱したと同時にNYヤンキースの帽子を被った客が入って来た。
西山:そんなのダメだ。ベイブ・ルース本人が何らかの形で出現しなければ話にならない。
全発言:西山洋市/聞き取り:石住武史/構成:浦井崇